宮崎先生への批判について考える

現在、Cambridge History of Japanの講座論文を書いていて、日本のキリシタン史研究を国際的に紹介しつつ、かくれキリシタン研究についても触れるのですが。前から薄々感じていたのですが、宮崎賢太郎先生の主張について、結構批判があるのですね。大学を引退するまで、ある時期からパッタリ著作活動をお止めになったこととも関係しているように思いますが。最近、堰を切ったように本が出ています。批判というのは、「カクレキリシタンはカトリックではない」という主張に対するものが一番多いようです。これはもうすでに中立的な(中立じゃないところもあるよ!)アカデミックの分野では、完全に肯定されている説です。客観的に見て、私も同意します。先ごろの世界遺産運動の中で、この部分は薄められていますが(なんたって「現存」することが一番感動的な部分ですし〜、でもやっぱり広告上の脚色はあると思いまーす)。
それはさておき。
宮崎先生は、「カクレキリシタンはカトリックではない」と発言したとして、「カクレキリシタンは信仰ではない」とおっしゃっているわけではないと思います。つまり個人の精神的な部分にまでは立ち入った見解ではないと思うのです。そもそも「信仰」ってなに?という話になりますけど、私は個人的には、極論的にいえば、「葬式」に関することであると思っています。日本のように、お宮参りに始まり、除夜の鐘、チャペルでの結婚式、等の、特異な宗教環境を「無宗教」と表現することもありますが、私の知る限り、「神も仏もない」と本気で思っている人はいないように思いますし、死後はできるだけ、「天国」か「浄土」か、さもなくば虫でもいいから生まれ変わりたい、という方がほとんどで、そしてクリスチャンでないほとんどの方は仏式でお葬式をされます。以前、かくれキリシタンのリーダーの方と、個人的にお話しさせて頂いた際に、後継者がいないという話になって、その方は、「とりあえずこの高齢化したコミュニティの中で、自分が最後に死なないといけないんだ」と話しておられたのが、すごく印象的でした。もちろんそれは「かくれキリシタン式の葬儀を行う」ことが、ご自分の最も全うすべきお務めだと思っているから、そういう発言が出るのです。かくれキリシタンの方にとって、「かくれキリシタン式の葬儀」ができないことが、理想の末期ではないという点において、それは「信仰」と言ってよいと思います。

話は横にずれましたが、宮崎先生の主張は、上から目線ではなく、客観的な事実を述べているのに、それで傷つく方がいるのは事実です。ただ、彼らがカトリックではないことは、最初に「発見」したMEPの神父さんたちも気づいていますし、現代に至るまで、「カトリックではない」という差別は、陰に日向に存在してきました。「枯松神社祭」だって、近年始まったお祭りです。戦前は、カトリックに再改宗せず、かといって完全な仏教徒ではない「古キリシタン」に対する差別的扱いは、結構ひどかったと聞いています。歴史ブームは、一般の愛好家の方達の、浪漫憧憬に支えられている部分は大きいのですが、現役の研究者はやっぱりそこは意識して一線画しておかないと、と思います。

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by mihokodesousa1 | 2018-07-04 11:59

南蛮貿易、大航海時代、マカオ、長崎など


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